もう何も 「ねぇ」と夕美が言った。「怒ってる?」 「いいや」と僕は言った。「何だか俺もはしゃぎ過ぎていたような気がする。久しぶりに部屋を掃除したりして。でも、まぁ、楽しかったよ」そう言って僕はまたしばらく窓の外を眺めていた。 「ねぇ」ともういちど夕美が言った。「こっちへ来て」 僕はベッドの上で夕美の隣に座った。 「もう何も考えないから」と夕美が言った。「本当に何も考えないからね」 その夜、僕は夕美を抱いた。 次の朝、僕はコーヒーを入れて、トーストを焼き、卵を茹でた。そして、それにサラダをつけてテーブルの上に並べた。僕の朝食は時間に余裕のあるときならいつもこんな具合だ。 夕美はコーヒーを少し飲んだあと、ゆで卵をひと口噛った。 「おいしい」と彼女が言った。「こんなにおいしいの初めてよ」 その朝僕が作ったゆで卵は、黄身の軟らかさが絶妙で、ひと口噛ると舌の上でそれが滑らかに溶けていった。 「ゆで卵にはね、奥の深いものがあるんだ」と僕は言った。そして、僕はそのときのゆで卵の出来がまぐれだったことを夕美には言わないことにした。 夜、僕は夕美を駅まで送っていった。 「また来月会える?」と彼女が訊いた。 「会えるよ」 「きっと?」 「そうだな、きっと」 新幹線が来た。僕たちのほかにも、別れを惜しむ男女たちの姿が見えた。夕美が新幹線に乗った。発車のベルが鳴った。ドアが閉まる寸前に僕たちはキスをした。そしてドアが閉まった。彼女の目に涙がたまっているのが見えた。 このページのコンテンツを表示するにはJavaScriptを有効にする必要があります。 Tweet