いちばん好きな季節 朝から夜まで漫画の執筆に取り組む日々が始まった。その週のうちに僕の住んでいるアパートの近くでふたつの花火大会が行なわれたが、僕はいずれもひとりで見に行くことになった。 僕は花火を見ながら物思いに耽った。礼子とのこと、会社を辞めたこと、漫画のこと、Fのこと、そして夕美。目まぐるしく一夏が駆けていく。 夕美から電話が入った。 「会社を辞めたんだ。予定より一週間早く」僕は事情を説明した。 「そう、よかったじゃない」 「まぁな」 その夜僕たちは朝まで語り明かすことになった。 「ねぇ」といつもの柔らかいトーンで夕美が言った。「一年のうちで、どの季節がいちばん好き?」 「春か夏だな」 「ふーん。どうして?」 「これから何もかもが生まれ変わるようなあの躍動感が好きなんだ」 「それは若い証拠ね」 「え」僕は彼女も春か夏が好きに違いないと思っていたのだ。「それじゃ夕美は?」 「私は秋がいちばん好き」 今になって思えば、夕美が『秋が好き』と言ったことにはとても深い意味があったような気がする。 「この間、私が『昼に帰る』って言い出して、結局やめて夜までいたわけがわかる?」 「さぁ」 「あのときさぁ、ゆで卵を食べたじゃない。それで、そのときに私、ああ、今帰っちゃったら、もう二度とこのおいしいゆで卵が食べられなくなるんだなぁって思ったのよ。そうしたら、急に悲しくなっちゃって」 やっぱりそうだったのか、とは僕は言わなかった。 「それと、一回めに会ったとき、私、帰り際に泣いちゃったけれど、この間は泣かなかったでしょ?その違いはわかる」 今度は本当にわからなかった。 「一回めの時はね、もう二度と会えないんじゃないかなっていう気がしたのよ。でもこの前は、また会えるって思ったの。この違いは大きいわよ」 「ところでさ、私の会社の女の子で、七日に結婚式を挙げる子がいるのよ。その子は私と同じ年で、相手はふたつ年下だからあなたと同じね。女の子はまぁいいとして、男の人の方はまだ若いよね」 この質問には裏があると思ったが、とりあえず僕は「そうだな」と答えた。 それからまた別のたわいのない話題に移って一時間ほど経ったとき、夕美は意味深な発言をした。 「私、二十八歳で結婚しようと思ってるの」 この秋で彼女は二十六歳になるので、結婚するまであと二年ということになる。 明け方近くになったとき、夕美がさらに意味深なことを言った。彼女は僕のことを、先日話に聞いた例の彼氏に次ぐ二番めの男だと言ったのだ。 「私がいちばん結婚したかったのが彼で、その次があなただってこと」 それはいったい何を意味するのか。彼女は『いちばん好きな人とは一緒になれないんだなって思った』と言っていた。だから、もう二度と苦しい思いをするのが嫌で、あえて僕を二番めの男にしたのか。 ‘ あるいは、本当に僕は彼女にとって二番めの男に過ぎないのか。それなら・・・・・・、と僕は思った。なんとかして僕は彼女の一番めの男になってやる。彼女には過去がある。思い出はどんどん膨らんでいく。それは僕にもわかっている。でもなんとかして・・・・・・。 このページのコンテンツを表示するにはJavaScriptを有効にする必要があります。 Tweet