夕焼け 僕は淳子とFのことを気にしながら作品のラストスパートに入った。締め切りまではあと十日間だが、仕事は最初の計画より少し遅れている。僕はほとんど夜も寝ずに執筆作業を続けた。 この作品には、夕美と出会ったこの夏の僕の気分が少なからず反映されることになるだろう。僕にとっては作品を描くということは、一方で、日々の記録を残すことでもある。つまり日記を書くようなものなのだ。この作品はたぶん僕にとって思い出に残るものになるだろう。また、この作品がうまくいけば、今後の僕の人生を大きく左右する、そんな予感もあった。 締め切りまであと三日と迫った日、僕は肉体的にも精神的にもかなりまいっていた。ほとんど気力だけで僕は机に向かっていた。 「元気?」と電話の向こうで夕美が言った。いつもの柔らかい声だ。 「ああ、なんとか」 「仕事は忙しいの?」 「今日明日が勝負なんだ」 「体は大丈夫?」 「正直言うと少しまいってる。何て言うんだろう、肉体的にも精神的にも疲れてくると、だんだん自分のやっていることに自信が持てなくなってくるね。実を言うとさっきも少し落ち込んでたんだ」僕は思わず彼女の前で弱音を吐いてしまった。 電話を切ってから、僕は彼女の前で弱い部分を見せてしまったことを反省した。そして少しの間休憩をとることにした。僕はコーヒーを入れた。窓の外には夕陽が見える。僕は煙草に火をつけ、しばらくの間ぼんやりと窓の外を眺めていた。やがて日は沈み、そのあとにきれいな黄昏色の空ができ上がった。僕は次第に気分が落ち着いてきた。夕焼けの色が少しづつ変わっていき、ほとんどその色がなくなりかけたとき、僕は再び仕事を始めた。 ある明け方、嵐が去った。やっと作品が仕上がったのだ。そして、その二日後、僕は夕美にある手紙を書いた。 元気か?僕は元気だ。体力もすっかり回復してきた。現在、僕にとっての夏休みの二日めを終えようとしているところだ。とりあえず、この夏休みはいつまで続くかわからない。自然の原理に従って言えば、やがて秋休みに入り、そのまま冬休みへと続くことになるのだろう。 ところで、つい三日前まで僕は仕事に追われていた。最後の一週間は特にハードだったが、とても素敵な一週間だった。そのときのことを少し話そう。 仕事をしている間、僕はずっと机に向かっていたわけだが、御存知の通り、僕の部屋は西日がまともに侵入してくる仕掛けになっている。だから、午後三時から五時にかけてはクーラーをかけていてもほとんど意味がないわけだが、そのあとふと気がついて窓の外を見ると、すばらしい色の夕焼け空ができあがっている。特にこの一週間は天気が良かったせいか、毎日その美しい夕焼けを見ることができた。しかし、僕は今までに、この一週間ほど熱心に夕焼けを眺めたことはなかったし、またその美しさにこれほど心を奪われたこともなかった。昨年の今ごろも僕はちょうどブラブラしていた時期で、やはり同じような風景をこの部屋から何度かは見ていたはずなのだが、ほとんど記憶に残っていない。そこで、それはなぜか、と考えた。結論から言えば、昨年と今年では状況が違ったということだ。 昨年の今ごろ、僕は日々貯金通帳から数字が減っていく中、焦りと憂鬱な気分で毎日を過ごしていた。しかし今年の場合は会社を辞めてからもとりあえずしばらくの間は夢中になれる仕事を持っていた。毎日は充実していた。 最後の一週間に見た夕焼けが特に美しく見えたのはなぜか?それはこうだ。つまり・・・・・・、時間に追われながら仕事をするということがどれほどたいへんなことか、夕美も仕事をしているわけだから理解してもらえると思う。僕もこの一週間は正常な精神状態を保つのにかなりの工夫が必要だった。だから、そんなときに見た夕焼けは未だかつて経験したことがないくらい僕の気分を和らげてくれ、そしてそのときの僕には信じられないくらい美しいものに映った・・・・・・と言葉にしてみればただそれだけのことなのだが・・・・・・。実際その時間の過ぎたあとは必ず仕事がはかどった。 締め切りの一日前に夕美が電話をくれたとき、僕はもはや、肉体的、そして精神的な疲れを隠すことができなかった。申しわけなかったと思う。情けないところを見せてしまった。しかし、皮肉なことに、あの日に見た夕焼けが、この一週間に見た中でいちばん美しく、そして印象に残ったということをつけ加えておく。 P・S こんな話はおそらく夕美にしかできないのだろう。 しかし、その手紙は、夕美のもとには届かないことになる。僕が手紙を出しそびれている間にもうひとつの嵐、いや、予期せぬ悪夢が次第に姿を現し始めていたのだ。そして、そのときの僕はまだそれに気づいてはいなかった。 このページのコンテンツを表示するにはJavaScriptを有効にする必要があります。 Tweet